Red Dead Redemption 2、終幕。
こんにちわ。
犬でございます。
昨年 10月26日から、長々と続けて参りました「Red Dead Redemption 2」のプレイ動画も、7ヵ月の時を経て、無事、終了と相成りました。
まずは、途中からでもご視聴頂いた皆様に、心からお礼申し上げます。
ありがとうございました。
もし、万が一、Part 1 からご覧いただいている方がいらっしゃったら、もうほんとに魂からお礼申し上げます。
Red Dead Redemption
Red Dead は、赤い死。赤はおそらく血でしょうから。
血とともにある死。
寿命による穏やかな死ではなく、他者が介在する”死”
つまりは、命を奪う、奪われる「殺し」という行為。
Redemption は、幅の広い言葉ですが、「救済」「贖い」を表していると思います。
殺しによる救済
殺しによる贖い
そう考えて、RDR2 の、長く美しいストーリーを思い返してみると、主人公は「ダッチ」なんだろうなぁと、感じました。
もちろん、アーサーの「贖い」も、ジョンの「贖い」も、意味のある物としてしっかりえがかれていますが、この2人の視点を通して、中心にあるモノは「ダッチ」だったんじゃないでしょうか。
ギャングを率いる者として、その責任を負うものとしての決断。
そして、その決断の結果が引き起こした、最悪の状況の連続。脅かされる命。失われる命。
その中で、状況を招いた自分の罪を贖う為に、ファミリーを救済する為に、命を奪い続ける。
そして最後は、ジョンとセイディを生かし、マイカの命を奪う事が、彼からファミリーへの贖いだったのかなぁ。
そう思うと、RDR 1 の作中、ジョンと対峙した時に自らの命を絶ったダッチの想いも、変わって見えてきます。
RDR 1 プレイ当時は「時代に対するあきらめ」かと思っていました。
でも、ジョンの命を奪う事もせず、自ら命を絶つことで、ジョンに自分の命を奪う行為をさせず。
きっと彼の心には、その瞬間、厳しい中でも信じ合って笑っていられた、昔のファミリーの姿が、浮かんでいたんではないでしょうか。
時代のせいとは言え、仕方の無い事とは言え、そのファミリーを守り切れなかった自分の罪を贖う行為が、自分自身を救済する行為が、それだったのではないかなぁ。と。
本作、RDR2 のエンディングは、本作中のスタッフロールではなく、RDR1 の、ダッジが崖から身を投げた、あの瞬間だと感じました。
願わくば、その後の彼の魂が、罪の意識を感じずに済むことを願います。
もちろんフィクションであることは十分理解していますが、そう思わずにはいられないほど、生々しく、人間臭く、泥臭く、とても美しいゲームと出会えました。
相変わらずの泣き虫動画を挟む形になってしまいましたが・・・・。
大型犬がお送りいたしました、Red Dead Redemption 2、ご視聴いただきありがとうございました。
しばらくは、単発もどきの動画が続くかもしれませんが、またいつか、素敵な作品の動画で、お会いしましょう!
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